松合の歴史 Concerning

松合の歴史

■松合の歴史■

不知火町松合は、宇土半島の南岸、不知火町の西部に位置し、東・北・西を丘陵に囲まれ、南は八代海に面し、温暖な気候と穏やかな内海の恵みを受け、港(漁業)と醸造で栄えた町です。

松合は古くから「舟がかりの津(港)」として開け、地内には良質で豊富な湧水が多く、近年まで生活用水として利用されてきました。
江戸中期(1700年頃)には、この湧水を使った酒造業が興り、明治初期まで「萬屋」、「阿波屋」、「新酒屋」、「財布屋」の4軒の酒造元で、年間約千万石(一升瓶で10万本)が造られていました。
更に、これらの酒造家の中には回船やあい物(海産物)問屋を手掛ける者も現れて財を成し、当時「肥後藩の食する魚は松合の魚に限る」という「達示」まで出されたと言い伝えられるように、肥後藩随一の漁港と称された松合港の賑わいと併せ、<松合千軒>と俚謡に歌われるほどの繁栄を見せました。

明治維新後、酒造業に代わって味噌・醤油の醸造業が始まり、新たに「米屋」、「天満屋」の醸造家の参入も併せ、「漁業と醸造の町松合」の名をますます高めることになりました。

一方、この繁栄の時期に松合は連続して大火に見舞われています。
その原因として、漁村特有の人家密集や建物の構造、三方を山に囲まれた地形など種々挙げられますが、特に文政9年から天保2年(1826~1831)にかけての5年間には4度の大火で延べ871戸が消失しました。(当時の松合の総戸数約600戸)

そのため、代々の惣庄屋は被災住民の救済と防火対策を図りました。
まず、海岸を干拓して新地を造成し、ここに被災住民を移住させ、移住跡地は道を広くして防火道路(現:火除道)とし、辻々には井戸を掘って火災に備え、町筋の家は火災に強い土蔵・白壁建物へと改築しました。
これらの防火対策、特に土蔵・白壁建物の建築ブームは明治後期まで継続され、現在の「白壁土蔵の街並み」として遺されています。

江戸期から明治期にかけて200年余にわたり繁栄の道を歩んだ松合は、明治32年(1899)に鉄道三角線が宇土半島北岸に開通したことによって輸送の主役が次第に鉄道に変わり、以後漁港としての繁栄も集散地としての機能も次第に三角港に移り、そして戦後の農地改革による醸造業の衰退等によって、繁栄した町も港も日一日と衰退していきました。

平成6年、行政と住民一体となった松合の歴史的景観の保存と整備計画が策されて「松合の街並み保存会」が結成され、平成9年には景観形成住民協定が県知事の認定を受ける等、活動が続けられています。

土蔵2

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